ナスダック一部上場。去年の配当金は一株百二十アール。
新入社員内定獲得競争倍率七十三倍。
この不況経済でも類をみない好景気の只中にいる、世界でも優良企業として名高い重工業株式会社プトレマイオス、通常トレミー。
この大企業の社員一人一人に配布されている薄緑色の表紙で作られた一般社員規則集には、基本規定出社時間は午前九時と明記されている。
社員の大半はこの午前九時を前提に、前後一時間を目途に毎日出社する。
深夜残業が続く営業やアフターセールスの部署では、昼前直前出社も暗黙で認められている。
通常定時上がりが基本の総務関係は、九時前には略全ての席が社員でうまっている。
プロジェクトなど特命分野担当者は、自分の仕事のペースでふらっと現れて、ふらっと消えて、ふらっと夜中の事務所を徘徊する。
現社長、イオリア・シフェンベルクは、毎朝七時に出社して、朝の二時間をメール処理の時間に費やすことが、数か月前に組まれた某経済雑誌の特集で掲載され、ビジネスマンの見本たるや何かを見せつけてくれた。
そして、ここに前述のどのパターンにも当てはまらない社員がいる。
社員相談室こと「よろず悩み相談所」、トレミー社員の心の悩み相談担当、スメラギ・李・ノリエガだ。
スメラギの出社は自己都合で常に午後と決まっている。
パートでもバイトでもない。正社員だが、午後出社だ。別に毎日午前半休をとっているわけではない。昼食後がスメラギの就業開始時間なだけだ。
お昼休みがそろそろ終わろうかという時刻。
トイレやら最後の一服やらで人が忙しなく駆け回る中、スメラギは二日酔いを隠そうともせずに、のらりくらりとハイヒールをカツンカツン鳴らしながら現れる。
その酔いどれマダムの風貌に、女性社員は眉を顰め、男性社員は癒される。決まったお昼休みにしっかり休みをとれる社員のみが眺めることのできる光景だ。
数年前、中途採用でやってきたスメラギは、「社員相談室の巨乳姉ちゃん」として社員の話題をとさらった。
それまで相談室を占領していたのが中年の元教師(道徳専攻)だった為、スメラギの存在は実寸より大きく派手に写ったのだ。
連日のように相談時間は予約で埋まり、スメラギはさながら社員の悩みを解決する占い師のように祭り上げられ、いつの間にか誰もスメラギのすることに横槍をいれる人間はいなくなった。
相談に訪れた中年男性社員は「まるで行きつけのスナックのママに話を聞いてもらった気分だ。ここなら酒代も取られないから一石二鳥だ」といかに癒されたかをオフィスで吹聴した。
まだ若い入社三年目の女性社員は「結婚退職するか、結婚しても続けるか、ずっと迷っていたけど、スメラギさんに相談して気分はすっきりした。まるで自分のお姉さんに相談しているようだった」と友人にも相談を勧めた。
あれよあれよの間に口コミは広がり、いつしかスメラギの出勤時間は九時から十時になり、十時から十二時になった。
いつのまにか午後一番を最初の相談時間に設定するようになったが、誰も文句を言わなかった。
そこに居て、話を聞いてくれればいい。ただそれだけで癒される。
社員の望みに叶ったスメラギに、もう怖いモノなどなかった。
優雅な平社員生活だ。
スメラギの飲酒や生活態度を咎めるのは、今となってはプロジェクト開発担当のビリー・カタギリぐらいなものだろう。
幼なじみらしいが、昔スメラギに振られた腹いせに細かく口を出してくる肝っ玉の小さい神経質な男……と、誰もが噂の風で耳にしている。
今日もスメラギはお昼休みの終わりを告げる放送が響くのと同時に総合受付を通り過ぎた。
個人的な飲み仲間で恋愛相談も受けているクリスの姿を受付ブースに見つけて手を振れば、珍しくしょんぼり萎びた顔で迎えられた。
かなり前から営業一課のイケ面、アレルヤ・ハプティズムに想いを寄せているクリスは、頻繁に恋愛相談を向けてくる。
スメラギの何度も痛手を負った経験から成る熟練した女の感で言わせれば、クリスの恋は絶対実らないだろう。
アレルヤはしたたかな男だ。自分にどれだけの価値があるか小数点以下まで把握している。
ごくたまにクリスを退社後に誘っていることも聞いているが、これは何かの目的があってのことに違いない。
アレルヤは、全くの善意や厚意で行動する人間ではない。
今クリスが暗かったのも、きっとこのアレルヤが原因だろう。後で携帯メールでもしてみよう。
メインの社員食堂などが入っている厚生棟の三階、フロアの奥の奥、南向きの広いフローリングの部屋が、スメラギの巣である社員相談室だ。天然木をふんだんに使った特別仕様の部屋で、相談にきた社員が少しでも気分を落ち着けて平穏を取り戻せるようにとの配慮がなされている。
壁には適当に癒される本物の絵画が飾られているし、部屋の中央にはドンと優雅な一人用のオットマン付きソファが三つ。机はない。机を挟んで対話をすると、その距離分最初から社員の心が身構えてしまうからだ。
壁に貼りつくように、一応スメラギのデスクはおいてあるが、本来の目的としてではなく、アロマセットを並べる場所として使っている。アロマは多種多様なエッセンシャルオイルを常備してあり、来訪する社員に合わせて匂いを変えたり、スメラギのその日の気分によって芳香を楽しんでいる。
アロマセラピーの力がどれほどのものか、未だ疑う声が多い中、スメラギは意外にもそのパワーを無条件に信じていた。
流行だからとか、格好いいからという上辺な理由からではない。長く生きてきた直感だ。
ここに勤務するようになった初日からアロマセラピーを取り入れた。当初は経費でこんなものを買ってと経理から揶揄や罵倒を受けたが、半年程して「社員相談室での和んだ雰囲気が職場でのやる気を取り戻させてくれた」という意見が社長直通メールボックスやら社員意見箱やらで激増した。
それ以来、誰もスメラギの行動に目くじらを立てる者はいなくなった。
ただ一人、幼なじみのビリー・カタギリを除いては。
「さて、今日は……」
一応の決まりで白衣を羽織る。
コーヒーメーカーから濃い匂いが漂ってくる中、予約ノートを広げる。今日の最初の予約は誰だったか……。
この社員相談の予約をとる社員構成が、最近顕著な変化を見せていた。
まず、プロジェクト関係者がお忍びで相談にくるケースが増加した。
プロジェクトは、毎日校了を迎える雑誌編集部のようなものだ。毎日のように何かの部分で山場を迎えている。それら重責と重圧に耐えきれずに、一時の心の安らぎを求めにくる。
特にここ最近は、アリー・アル・サーシェス筆頭のプロジェクト≪ダブルオー≫関係者が多い。
アリーのPMとしての手腕は買えど、それに自分がついていけるかは別問題だ。
あいつは人間じゃない。このままじゃあいつに殺される、等等。アリーへの不満を聞きすぎて、スメラギ自身はアリーとの面識が皆無なのに、旧知の仲のように身近に感じるまでになっている。
営業一課の新人、沙慈・クロスロードは相変わらずコンスタントに顔を見せてくれている。金食い虫の彼女だとか、同じ部署でねちねち虐めてくる黒髪銀瞳の先輩だとか、まあ毎度同じ話で新鮮味はないが、これも仕事のうちだ。根気良く聞いて同意してあげることがスメラギのすべき仕事内容だ。
給料をもらっている以上、たとえ心中別の感想を抱いていても、あくまで聞いて同情してあげることが必須だ。
そんな相談係としてはマンネリ化しつつある中、最近よく尋ねてくる毛色の変わった美人がいる。
元経理、現在プロジェクト≪ダブルオー≫のコスト管理担当となったティエリア・アーデだ。
ティエリア・アーデのことは、彼が初めて相談に来るまえからスメラギも噂に聞いて知っていた。
「トレミーきっての美形」「世紀末の麗人」の異名を誇るティエリアは、年の功で目が肥えていると自覚のあるスメラギも即座に頷けるほど完璧な姿形をしている。瑕疵一つない顔は、整い過ぎていて冷たく怖い雰囲気すらある。
女性であればさぞクールビューティともてはやされただろうが、残念と言うべきか、彼はれっきとした性別男だ。
そんな噂高い彼が初めて予約をして相談に来たのは、一ヶ月半程前のことだ。
その時は一度きりで終わった。どうも彼はスメラギを相談相手として不服に感じたようだった。始終不審げな視線を投げ続けた後で、締めくくりに「もういいです」と嘆息された。
スメラギに相談しに来たはずなのに、スメラギ自身を信用せず殻に閉じこもったままだった。
もう来ないだろう。そう思った。
だが、それから半月程して、ティエリアはまた電話で予約を入れてきたのだ。オフィスの自分の机の固定電話からだったのか、妙に押し殺したヒソヒソ声で「今日今から伺いたい」と切羽詰まった予約の仕方だった。
電話が来たのが午後一番。どうも朝からずっとかけ続けてくれていたらしく、電話に出た途端「どこに行っていたんですか!」と怒鳴られたのは記憶から消えていない。
結局その日は予約が詰まっていて、それでもどうしてもと粘ったティエリアに会ったのは夜八時を過ぎてからだった。通常相談には設定していない時間だったが、あまりの必死具合にスメラギに断るという選択肢はなかった。
それから一ヶ月、ティエリアは三日と明けずに相談に来るようになった。立派な相談室ジャンキーだ。
相談内容は、ずばり恋愛。
初日にこちらから相談内容について確認する間もなく、「実は今恋愛というもので悩んでいる」と切りだされ、その後延々二時間相手との馴れ初めから、現在までの経緯、自分の行動とその正当性、そして相手の行動とその真意について委細の説明を受けた。
ティエリアの悩める相手とは、これまた美丈夫な営業一課長ニール・ディランディだった。
不眠不休で多くの健康障害者を続出させているアリー率いるプロジェクト≪ダブルオー≫でニールと一緒に働くことになったティエリアは、初めて一緒にご飯を食べに行った夜、ニールにキスされた。
このキスはティエリアにとってファーストキスだったらしい。
初めて自分の唇を奪った相手に惚れきってしまったティエリアは、それからどう行動してよいのか解らずに、スメラギのところへ駈け込んだのだった。
コンコンコン。
来たようだ。
律儀に毎度三回。壁の時計はぴったり一時十五分。
ノートに書かれた本日最初の相談者、ティエリア・アーデが来た。
四日前に来た時の話では、ニールとは毎週金曜日の夜に出掛けていて、キスも何度かしたが、まだそこから先には進んでいないと赤裸々に教えてくれた。
そこから先。
女のスメラギには知識として持っていても、男同士のセックスは未知の領域でアドバイスのしようがない。話題がそこまで及んだら、自分ではわからないと正直に言わねばならない。
丁度溜まったコーヒーをふたつのカップに用意しながら「どうぞ」と促す。
アロマはセットしない。ティエリアはアロマポットが嫌いだからだ。
様々な匂いを試してみたが、そのたびに「生臭い」だの、「この枯れ木の匂いはなんですか」だの煩いので、スメラギも諦めた。
グレープフルーツの匂いを嗅がせたときなどは、「そんなにグレープフルーツが好きなら本物を買って食べればいいじゃないですか」と情緒のない一言を頂いた。
「失礼します」
当初より砕けることのない丁寧な挨拶とお辞儀でティエリアが入ってくる。
カップを両手に持って迎えたスメラギは、もう一度「はい、どうぞ」と言いかけて絶句した。
「ちょっと、どうしたの、ティエリア、それ……」
相談者の白い右頬が、真っ赤に腫れていた。
誰かに叩かれたのは明白だ。喧嘩だろうか。それとも……。
ともかくもシングルソファの一つに座ったティエリアにカップを渡す。
机上に広げたままの予約者ノートで、ティエリアに一時間時間を割り当てていたことを確認してほっとする。三十分じゃ終わりそうにないと判断したからだ。
ノートを閉じる間際、次の予約者の名前が目に入った。
アニュー・リターナー。
今日が初めての相談者だ。
思い出す。
本人ではなく、彼女の上司であるカティ・マネキンから予約の電話をもらった社員だ。
初回の人なら多少ティエリアの時間がずれても待っていてくれるだろう。
スメラギはティエリアの対角線上に腰を落ち着けると、コーヒーを啜りながら始めた。
トレミー社員相談室。
いつからここは、悩める若人恋愛相談所になったのだろうか……。