「ニール、最近どう? 忙しい?」
「は? なんすか、突然。つうか、禁煙してましたよね? もうギブアップですか?」
出来れば顔を合わせたくない相手がなぜか目の前に立っていて、ニールはわざとぞんざいな物言いで話をはぐらかそうとした。せっかく自分の所属部署のある建屋を離れて遠く離れた社員用カフェテリアの喫煙室まで足を運んだのに、これじゃ意味がない。
「いやまだ禁煙中だよ。煙の匂いだけ嗅ぎにきたんだ」
「それじゃあ禁煙してる意味ないっすね」
「で、どう? 最近は余裕でたか?」
余裕。余裕のある営業なんてこの世にいるのか?
「いや、今ニールは担当プロジェクトが一件落着して、少し余裕が出てきたかと思ってね…」
「はあ、まあ…いや、一件落着って言っても、別に終わったわけじゃないっすけどね。単にSOP過ぎたってだけで、営業から見ればこれからが本場ですし」
ぷはっと吐いたタバコの煙はあっという間に煙吸い取り装置に吸収されていく。余韻のへったくれもない。吸ってもその匂いはたちまちまるで毒ガスだとばかりに機械に吸い込まれる。
丁度定時就業時間の少し前とあって、喫煙所に誰も来る気配はない。ニールは観念したとばかりにわざと紫煙と一緒に溜息を音に出した。
「本部長、言いたいことがあるならちゃっちゃとお願いしいますよ。今日は定時であがりたいんで」
ちらっと腕時計を見る。定時まであと二分。
「へえ、ニールが定時上がりなんて珍しいなぁ」
今はなんちゃって禁煙者のくせして喫煙者の聖域に当然の顔をしていすわる営業統括本部長、イアン・ヴァスティはわざとらしく驚いた顔をした。
この狸親父が……。
センスのない親父が好んで着るような褪せたオレンジ色のポロシャツにチノパンという、いささか営業とはかけ離れた格好に穏やかな、平凡な顔つき。だがそんな外見にそぐわず、イアンは営業の神様と社長にも認められて六年前に営業本部の頂点、営業統括本部長の椅子に座った。
丁度ニールが入社した年のことだ。
元々開発本部のエンジニアだったイアンは、昔、この主にMS開発を手掛ける一部上場重工業会社プトレマイオス、通称トレミーが飛躍的業績をあげたMSプロジェクトフラッグに開発担当として参加した。
その際の功績に、時の営業統轄本部長が半ば無理矢理イアンを自分の部署へ引きぬいたのだ。
「自分にどんな天性の才能があるのか、それはトライしてみるまでわからないもんだよ」
ニールが新入社員として入社したとき、イアンはそう言って今と同じように喫煙室で気さくに話してくれた。
その時は物わかりのよい、良い上司だ、そう心底思ったのだ。
だが、その後の六年間でイアンに対するニールの評価は落下の一途を辿っている。いや、個人的に云々の話ではない。個人的な関係で言えば入社当時からなにくれとニールに特別な目をかけてくれたイアンは、感謝に値すべき存在だとは思う。
入社して二年で主任、四年で課長の座をゲットしたのもイアンの口添えが皆無だったわけではない。多かれ少なかれイアンの評価も加味されているのは間違いがない。
ニール・ディランディ。営業統轄本部、MS海外営業部、営業一課長。二十八歳にしてトレミーの花形部署とされるMS営業の中でも最大手取引先を相手にする営業一課のトップに任命されたスター社員だ。
ニールは同期の間どころかこのトレミー創立以来の最速出世と言われ、連結社員数七万人へ配布される社内紙<トレミータイムス>でもインタビュー特集が組まれたこともある。本人はさして気にしたこともないが、営業はニールの天職だったということらしい。しかしそれら功績や昇進は、天職だったという一言で済まされる出来事でないのも、ニールは重々承知している。経営学部を卒業して営業配属というどこにでもありそうな就職の道を辿ったにしては即座に予想外のリターンにありつけたのは、天賦の才と運、そして今ニールに何か確定事項を伝えんとするイアンのもたらしたものだ。
そのニールが好むと好まざるとにかかわらず様々な恩恵をもらたしてくれたイアンは、顎周りに伸びている無精ひげを手で弄りながら口火を開いた。
「SOP過ぎればあとは残りのヤツに任せることもできるな」
「え? 残りのヤツって、…刹那ですか?」
イアンが頷く。
「プロジェクト≪エクシア≫はあのちび小僧にまかせて、ニールはダブルオーにまわってくれ」
「はぁ? あっ…」
一瞬前まで指の間に挟まっていたタバコがない。灰を落とそうとゴーッと小さく唸っている吸引口に手を近づけていたら、イアンの言葉に気を抜かれた一瞬でタバコこと吸引されてしまった。
小さく舌打ちする。まだ三分の一残っていたタバコを惜しんでという意味もあるが、この舌打ちはどちらかといえばイアンの言葉に対してだった。
もう一本吸おうか迷ってやめた。吸うと吸い終わるまでこの喫煙所を出る口実がなくなる。
「≪エクシア≫の営業はこれからっすよ。とてもじゃないが刹那だけじゃ無理です」
「もちろん刹那だけじゃなく、別の人間をまわすよう手配する」
「別の人間って?」
「アレルヤとマリーだ。もうモレノの了承ももらっているから」
ぴっ。イアンは適当な髭を一本抜いて、つまんだ指を見ている。相手の意見など聞く気ゼロだ。態度がもうこれら全て決定事項だと告げている。モレノに先に話をつけているというのは、協議の余地なしという意味だ。
モレノには了承するしか選択肢はないだろう。
モレノはニールの上司にあたるMS営業部部長だが、この一年病に伏して殆ど会社には出てきていない。いい加減部長職から外して新しい人選をしなくてはならないのだが、適任者がいないことと、営業統轄本部自体が日々多忙を極め、人事にまで手がまわらないのが実情だった。
今不在で仕事が回っているのに、何を焦って決める必要があるか。営業全体の意識がこんなだから、誰も困ったと思ったこともない。
今はイアンが兼任状態で、ますますモレノの存在は透明と化している。
「アレルヤは≪キュリオス≫のアフターセールスでそれどころじゃないっすよ」
「アフターセールスなんてそれこそアフターセールスに任せておけばいいんだ」
「そのアフターセールスが頼りにならないから、うちが後々までサポートしてんじゃないですか」
アフターセールスの某フランス人の顔を思い浮かべる。苦笑を禁じ得なかったのは最初だけ、その後散々怒りをぶつけてみたが、今はもうあのおちゃらけた態度にただただ呆れかえるしかない。
イアンも同じ人物を思い描いたようで、苦笑いを噛み下す。
「ともかくも、お前は≪ダブルオー≫の営業代表ってことで、来週のキックオフからよろしく頼むな」
話が終わったところで、タイミング良く定時終業を知らせる鐘がなった。
「じゃ俺も帰るから。今日は娘が夕飯を作って待っててくれるんだ。パパの為に新しい料理を覚えたからって言ってな…本当に可愛いもんだよ、娘ってのは。お前もそのうち結婚して子供ができれば俺の気持ちがわかるだろうよ」
会えば必ず聞かされる娘自慢で締めくくると、イアンはそそくさと喫煙所を出て行く。遠ざかる多少猫背気味の背中を見遣りながら、ニールは大事なことを聞き忘れたと大声をあげた。
「イアン! ≪ダブルオー≫のPM、結局誰になったんすか?」
「アリーだ。アリー・アル・サーシェス」
振り向きもせずに教えてくれたイアンは、これ以上突っ込まれまいとするように小走りで去っていった。
(あの狸親父ッ。てめえ知ってて言わなかったな)
悪態付くが遅い。
PMがアリーだと知っていれば断固拒否したのに。
後悔先に立たず。うっかり聞かなかったニールの負けだ。
今日は金曜日。定時も過ぎて本当であれば一週間が終わった解放感に浸れるはずなのだが、ニールはこの喫煙所に来た時よりも気分が淀んでいた。
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「ニール、さっき頼まれた領収書なんだけど、経理に聞いたらダメだって言うの」
オフィスに戻ってきたニールに、営業一課付き庶務のフェルトが一枚の紙切れを渡してきた。午前中にニールが頼んでおいた経費処理用の領収書だった。先週エクシア関係の接待で、高級フランス料理店を使用した。先方の希望もあってそのレストランを選んだ。
接待経費について経理はえてしてうるさく細かいが、営業は接待してなんぼの部署でもある。その場で高いだの使い過ぎだの小言を言われることはあっても、今まで拒否されることはなかった。
「なんでダメだって?」
「高いからって…」
「高いのは今に始まったことじゃないだろう」
「わたしもそう言ったんだけど、全く取り合ってくれなくて…」
すまなさそうに俯くフェルトの肩を慰めるようにポンと叩く。
「別にフェルトが悪いんじゃないんだから気にするなって。ちょっと俺がこれから行って聞いてみるから。もう定時だからフェルトは帰れ。待たなくていいからな。処理できたら書類は机の上においておくから、月曜日に処理してくれな」
ニールは領収書を受け取ると、そのままエレベーターホールへ向かった。
八機あるエレベーターの一つの扉があく。ニールは乗り込むと経理のある階のボタンを押した。階下へ降りる動きを感じてすぐ、ズボンのポケットから振動が伝わってきた。ニール個人の携帯だ。営業用で会社から貸与されている携帯電話は背広のポケットに入っている。
黒い携帯を取り出すと、メールが来ていた。
≪今日の約束、大丈夫そう? 時間遅らせようか?≫
アニューからだった。今日はこれからアニューと夕食を食べにいく約束をしていた。夕食だけじゃない。当然朝まで一緒に過ごすのだ。
≪大丈夫。予定通りで≫
ささっと返信する。元々ニールに突発的な仕事が多少入ってもいいように、待ち合わせは遅めにしてある。これから経理に行っても時間的にはまだ余裕があった。
建屋が違うアニューとはメールのやり取りが多く、実際に会うのは週末、金曜日の夜から土曜日だけだ。そこまで密じゃないけどあっさりしすぎてもいない。もう二年になる体の関係を含めた付き合いは、程良い加減を保っていた。
経理の階につくと、ニールは昔は通いなれたオフィスに足を踏み入れた。営業より狭めではあるが、それでもかなり広いフロアに、背高なパーテーションで区切られた机が並ぶ。
入ってすぐにカウンターがあり、他部署の人間はそこで必要な担当者を呼び出すことになっている。
(担当の名前聞いてくるの忘れた… )
課長になってからは自分で費用処理をすることもなくなり、今自分の課は誰が担当なのか分からない。
しょうがないので、ニールはカウンター上にあるベルを押した。このベルを押すと、とりあえず誰かが出てきてくれて、状況に応じて適切な担当者を呼び出してくれるのだ。
ベルを押してからぐるっと見回せば、ほとんどの机は空席で、どうも皆帰宅したらしい。金曜日の定時過ぎだからとは言え、これは少し早すぎじゃないかなどと考えていたら、自分のいる入口とは反対側、窓際に沿った席の一つから頭が一つせり出した。
その人間はとことことこちらまで歩いてくると、ニールにあからさまな不機嫌視線を投げかけた。
「なんだ?」
無愛想な問いだが、声は凛としていて涼しげだ。紫色のストレートなボブカットを煩わしそうにかきあげた顔を見て、ニールはその整った顔立ちを見つめた。
シミ一つない白い肌にすっと整った鼻立ち。こちらを睨みつける瞳は真っ赤で情熱的だ。二、三度瞬きした目には邪魔じゃないかと思う程に長い睫毛が張り付いている。
ネクタイを締めた姿から男だと認識するが、ネクタイをしていなければどちらか一目では判断がつきにくい、中世的な雰囲気があった。
「なんだ?」
もう一度聞かれて、ニールは領収書をカウンターに置いた。
「営業一課が今日出した領収書なんだが…」
「営業一課は俺の担当だ」
「お、ラッキー。この領収書、うちの庶務さんが持ってきたら拒否られたらしいんだけどな…」
赤眼の美形が領収書を手に取る。すっと見ただけで、またカウンターに置いた。
「これなら経費として認めないと言ったはずだ」
「どうしてだよ? 」
「営業が接待に使うには高すぎる」
「高すぎるって、今まではこれ全然認められてたんだぜっ。どうして今回だけだめなんだよ?」
確かに高い。自腹だったらニールも行かないような高級店だ。だが、営業は特別な免罪符を有している部署だ。どんなに高くでも経費で許されるのが今までの常だった。
「今回だけじゃなく、これからもだめだ。特にこういう店はダメだ。金輪際使用禁止だ。営業だからと何もかも許されると思うなっ」
「なんだよ、その使用禁止ってっ。誰が決めたんだよ、そんなこと」
「俺だ」
「はぁ?」
ニールは眉間に皺を寄せて相手を睨んだ。相手もニールをじっと睨んだまま怯まない。暫く睨みあっていたが、紫頭は突然二人の間で無言で行方を眺めていた領収書を取り上げると、びりびりと破いてしまった。
「ああっ、お前何すんだよっ!」
叫んだが遅い。≪株式会社ホワイトベアの接待費として≫と書かれた紙はあっという間に紙吹雪状態になって床に散らばった。
「今後はこれに懲りて、無駄な接待費は削減することだな」
道徳教師のようにお小言すると、紫頭は自分の机に戻ってしまう。すとんと座った頭はパーテーションで見えなくなり、ニールは呆然としたまま床を見つめていた。
紙吹雪の舞う演歌ステージに立っている気分だった。