既にあらゆることを発掘されすぎて人間が真に驚くこと等何もなくなってしまったかのように見える昨今。それでも世の中には珍しいことがまだまだ沢山転がっている。そしてそれらは突然自分の目の前に姿を現すものなのだ。
この日ベッドで気持ちよく目覚めたアレルヤの前に、その「世の中の珍しいこと」の一つが「さあどうぞ」と言わんばかりに落ちていた。
昨晩もティエリアにさんざん楽しませてもらった。逆に言えばティエリアをさんざん苛めて泣かせた。最後には気を失ったティエリアの体を丁寧に拭いてあげて、生まれた姿のままで自分の抱き枕としてアレルヤも眠りについた。
そして今日は仕事もないオフ日。ティエリアを連れてどこか近場までドライブに行くのもいいし、カフェでまったりとするのもいい。音楽祭まであと僅か。音楽祭が終わればアレルヤは即効この地を離れなければならない。アレルヤの個人的希望とは別の次元で自分の予定は勝手に進んでいく。それはピアニストとして生活をしている今は諦めて受け入れるしかない。ならこののんびりとした田舎町に滞在している間だけでも好きなように時間を使わなければ損だ。そして今自分にはかねてから手に入れたかった宝物が横にいるのだ。
「ティエリア・・」
いるはずだ。
「ティエリア?」
いや、いるはずだった。
「ティエリア、起きてるの?」
アレルヤが起きると、そこにティエリアの姿はなかった。自分の横を触るとシーツもひんやりしている。かなり前に起きていなくなったらしい。
(いや、それはありえないだろ)
ティエリアの寝ていた側のベッド脇を見る。あまりの寝像にに床に転がっているかもしれない。だがいなかった。
ありえないことだ。ティエリアは寝汚い。今までアレルヤより先に起きたこともベッドを出たこともない。アレルヤが無理やり起こさなければ永遠に一生ベッドの中にいても誰も何も不思議と思わないだろう。そのぐらいティエリアは寝るのが好きだ。
なのに今朝は見当たらない。
「ティエリア?」
やはり返事がない。ベッドルーム周辺にはいないようだ。
アレルヤは素早く起きてバスローブを身につけると階下に降りようと廊下に出る。そして何気に一階を見下ろした。二階廊下はロフトのようになっていて一階リビングを見下ろすことができる。視界に映るいつもと同じリビング風景。この街屈伸ホテルのペントハウスはすでに朝の爽やかな太陽光で燦々と包まれている。その中で当たり前に鎮座している自分のピアノ、そしてその横、床に寝かせてあるティエリアのコントラバス。そしてその横に、いた。ティエリアはじっと自分のコントラバスの前で立っている。調律か何かをしているわけではない。ただそこに立っている。
(よかった、裸じゃない)
瑣末なことに最初に安堵する自分に、かなりティエリアに自分の生活がハマってきたと苦笑してしまう。
昨晩は裸のままで抱いて眠ったので、ティエリアが起きたときも裸のままだったはずだ。ボンクラなティエリアは自分のことに無頓着で、自分の意識がいかない限り、平気で裸でも家の中をウロウロする。別に自分以外見ている人間はいないが、それでももし突然ホテルのボーイなどが部屋に来たらその素肌を相手に晒すことになるわけだ。考えただけで体中の血管が切れそうだ。
だが今はこの前アレルヤが買ってきたバスローブを着ている。普通のバスローブにはある襟がないタイプの白いシンプルなもので、薄ピンクの小花柄の縁取りがかわいくて、ティエリアに似合っている。実はこれは子供用バス製品売り場で購入したのだが、それは本人には言っていない。いうと拗ねるからだ。ホテルの備付のバスローブでは大きすぎて、冗談でなくエスキモーの上着のようになってしまうので、初めてティエリアが泊まった次の日に早速少し離れた町のデパートで見つけてきたのだ。その日は無理やりオケの全体練習時間をずらした。理由はオケなんか比較にならない程重要な用事とだけスメラギに伝えた。
アレルヤはわざと相手に気づかれるように階段を降りてティエリアの後ろに立つと、その華奢な体を抱きしめた。
「どうしたの?いないから吃驚したよ」
返事はない。まあいつものことだが。でも何となくいつもの返事がない様子とは違う雰囲気に、アレルヤは恋人の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?何かあった?」
「手」
「手?」
「痛い」
「左手?」
ティエリアが痛くなるのは左手だ。右手より左手の方がはるかに辛いだろう。
「左手」
「痛いの?いつもの腱鞘炎だね」
茄子色頭がコクっと頷く。腱鞘炎は音楽家にはついて回る厄介な病気だ。指や手を酷使する余りに腱が痛くなりひどい時は動かすこともできなくなる。定期的なマッサージであいまいに騙し騙し弾いているうちに本当に動かなくなるケースもある。ティエリアのように手が小さいのに大きな楽器を弾く音楽家は特に陥りやすい。
自分の腕の中にある体は冷たい。長いことここにいたのか、それとも眠れなかったのか。
「ずっと痛くて眠れなかったの?」
「・・・・」
「ずっと一人で起きてたの?」
「お前は寝ていた」
「そういう時は起こして。いつでも起こしてくれていいんだよ」
「ロックオンがいない」
他人が聞いたら話が噛み合っていないだろうが、アレルヤには愛しいティエリアの言わんとすることはよくわかる。いや、ティエリアの言葉だからこそ解るのだ。これがおしゃべりオウムの言葉や、日々カティが受け取るファンレターの文章だったら全く理解できない。いや理解する気がない。
「ロックオンがいないから誰もマッサージしてくれないんだね。大丈夫これからは僕が全部やってあげるから」
約束だよと囁いて細い首筋に唇を落とす。やっぱりひんやりと冷たい。かなり長いこと一人で起きていたらしい。
「マッサージしてあげるからおいで」
アレルヤはティエリアを抱きかかえると、二階のパウダールームに連れていき、シンクにお湯を溜める。その間にルーム内にある椅子をシンク前に置いてそこにティエリアを座らせた。自分はその横に膝立ちになる。お湯が充分に溜まったところで、そっとティエリアの左手を湯の中に浸ける。ほわっとした蒸気が二人の周辺を包み、その仄かな暖にティエリアの強張った顔が僅かに緩んだ。
それからゆっくりとアレルヤはその細くて小さい手を擦ってやる。アレルヤも幼い頃はよく経験した痛みだ。それでもアレルヤは指も長く音楽家としてはそれほど苦労した記憶がない。だがティエリアは見るからにこういう痛みには好かれるタイプの手をしている。平も小さく指も長くない。それなのにコントラバスという弦楽器で一番大きい楽器を操らなくてはならない。しかも仕事熱心なだけに練習量も半端じゃない。当然の帰結だ。
しばらく同じ動きで指をほぐし、手の平をさすり、手首から腕を優しく揉み続ける。
(ロックオンの名前を出すところが、また可愛さ余って憎さなんとか・・なんだけどね)
ティエリアとしては他意はないのだろう。いやない。ティエリアの言動に「他意」や「ワザと」という前置きはない。ティエリアはいつでもどこでも全て直球、ストレート剛速球だ。今度はボールで行こうとか、ちょっと変化球投げてみようかなどと言うある意味気の利いたことはできないのだ。でもそんなティエリアだからアレルヤのツボにはまっている。
「・・・?」
自分の肩に何かがコツンとあたった。シンクの向こう、壁一面の鏡に自分とティエリアが映っている。鏡の中のティエリアはアレルヤの肩に顔を載せて僅かに口を開けて思いっきり寝ていた。
マッサージが気持ちよかったのか、湯気が暖かったのか、気持ちよさそうにすこーっと鼻まで鳴らしている。もしかしたら昨晩はほとんど寝ていなかったのかもしれない。
(本当に君はかわいいよ・・)
寝てて感覚などないだろうが、それでもアレルヤはマッサージしてやる手を止めなかった。
こんな程度の奉仕で自分になついてくれるなら幾らでもしてやるつもりだ。もうロックオンなんて存在は不要だ。これからは何でも自分が与えてやるつもりだ。快楽も、安心感も、穏居感も、そしてマイナス感情である不安も、嫌悪も、焦燥感も、そしていつかは嫉妬や浮気という恋愛に付随する感情も。
感情のないものに新たな感情を植え付ける作業は何て楽しいのだろう。プリティウーマンやマイフェアレディの比じゃない。これは自分の音楽を生み出すのと同じだ。何もないところから音を作り出して自分の曲の形をなしていく。ティエリアとの付き合いはまさにその人間バージョンだ。
アレルヤは寝たままにティエリアに十分マッサージを施してから、そっと音を立てないようにティエリアの左手をシンクから出した。横のラックにあるタオルの一枚をとって揉むように水分をふき取る。さっきよりは色味が良くなったような左手は多少柔らかくなったようだ。この左手の持ち主が寝こけているということは痛みも和らいだのだろう。人間どんなに眠くても痛みを感じているうちは寝ることはできないものだ。
自分も手を拭うと肩に容赦なく体重をかけてくる紫の頭を手で押さえながらもう片方の腕をティエリアの両膝裏に入れて抱き上げる。バスローブの合わせがはだけて白い大腿が誘うようにチラ出するが、寝ている相手では反応がなくて面白くない。感触で下着をつけていないのがわかっで余計残念感が増すが、ここはやはり我慢するのが当然だ。
(無意識に誘われるのが一番くるんだけどね)
そう溜息をつくと、アレルヤは大事な宝物をベッドルームへと再度運び入れた。この様子では今日はどこにも行けそうにない。このまま部屋で過ごすことになりそうだ。それもまたいい。ティエリアとの時間はこれから永遠にある。近いうちにティエリアには自分の住むニューヨークに来てもらって一緒に暮らすつもりだ。そうなれば毎日二人だけの生活だ。時間はたっぷりある。だから今日をどうこうと頑張る必要はない。
「おやすみ、ティエリア。起きたら今度こそちゃんと教えるんだよ」
白い額にキスをして、ベッドルームをあとにする。一階のキッチンでコーヒーでもまず飲もう。それから・・・
(あ、そういえばソーマからなんだか電話が来ていたっけ・・)
何度も携帯電話にソーマからの着信が入っていた。面倒くさいから放っておいたが、電話でもして暇つぶしがてら誘いの言葉でもかけておこうか・・・。