第一外科の新人医師、刹那・F・セイエイは、同じ科のシニアレジデントであり、自分のオーベンでもあるニール・ディランディをとても尊敬していた。
別に自分のオーベンだからというわけではない。
ニール・ディランディの仕事へのスタンスと、頭の中に詰まった知識の量、そして土壇場における正確な判断の数々。これらを日々目の当たりにした当然の結果だ。
そしてそれらを上回る尊敬するに値する理由、それはニール・ディランディの人柄だった。
この大学病院が併設する大学ではなく、別の町にある大学を卒業した刹那は、新人研修医の殆どが同じ大学からの卒業生で占められる中、初日から一人ぽつんと浮いていた。
学生時代の先輩もいない。教わった教授連も当然いない。同じ分野とはいえ全く未知の世界だった。
特に孤独を気にする性格ではなかったが、元来口数が少ないところへ持ってきて知らない人間達とあって、刹那は勤務初日から同じ新人仲間の枠から外れていた。しかも刹那は人と喋るときに敬語が使えなかった。そんなこと刹那自身、今まで気にしたこともなかったが、研修医同期生も医局の人々も、刹那のタメ口に一様に眉間に皺を寄せた。
そんな刹那に、まるで旧知の友人のように話しかけてくれたのが、自分のオーベンだと紹介されたニールだった。
第一印象は「背が高い男」だった。
自分の背が成人男性平均身長より低いから、まず背の高さに気がついたのだろう。
医局秘書から刹那を紹介されたニールは、すっと手を差し出すと、自然な笑みを蒼い瞳に浮かべた。
「俺が君のオーベンになるニール・ディランディだ。よろしくな、刹那・F・セイエイ」
「よろしくニール。俺は刹那だ」
しょっぱなから偉そうな対応を、だがニールは気にした様子もなかった。
最初刹那のことを「君」と読んだニールだったが、次の日には「刹那」と呼び捨てしていた。だから刹那も「ニール」と呼んだ。タメ口で話しても、一度も不機嫌な顔を向けられたことはなかった。そんなニールの気軽さが、刹那の無意識な緊張を解いてくれた。
新人研修医としての毎日は、多忙の一言に尽きた。
朝早くから夜中まで、アパートでゆっくりする時間などなかった。ニールの後ろについて様々なことを覚え、ニールの手術における手さばきを観察し、それを自分の技術にしようと努力を重ねた。
新人など出来ることはたかが知れている。ベテランの看護師たちにどやされながらも、刹那は立派な医者になる為の努力は惜しまなかった。人付き合いも悪く取り立てて趣味もない。勉学に費やせる時間だけはたっぷりあった。
そんな充実した研修医ライフを送っていたある日、刹那はニールからある仕事を頼まれた。ニールも刹那も夜勤明けで、やっと帰れるとほっと一息ついた夕方のことだった。
誰もいない仮眠室に刹那を連れ込んだニールは、突然変なことを言い出した。
「刹那、耳鼻咽喉科にティエリア・アーデっていう患者のカルテ、コピーもらってきてくれ」
「耳鼻咽喉科のカルテ? 担当医は誰だ?」
「担当医に見つからずに、黙ってコピー取ってきて欲しいんだ」
ニールの顔には、「変なことを頼んでいるのはわかっている。でも敢えて何も聞かずに頼まれてくれ」と書いてあった。
だから刹那はそれ以上質問しなかった。了解して任務を遂行した。尊敬するオーベンのために。
結果、刹那は任務を完了することができなかった。ティエリア・アーデなる患者の担当医はアリー・アル・サーシェスという講師だったが、この講師がどこかにカルテを隠しているらしく、どこにも見当たらなかった。
内密な故に、耳鼻咽喉科の看護師に聞くわけにもいかない。夜中の看護師が巡回に出た隙を見て忍び込んだのに、全く収穫なしだった。
カルテが手に入らなかったと報告した刹那に、ニールは「やっぱりだめだったか」と溜息をついた。以前自分でもトライをしたことがあるようだった。
それから暫くして、また仮眠室でニールから仕事を頼まれた。
今度は病院の近くにあるケーキ屋でケーキを買ってきて欲しいという依頼だった。
「患者に渡す約束をしているんだが、次の回診まで時間がなくて行けないから」
ニールはお札とメモ用紙を渡してきた。メモを見ると、ケーキの種類と個数が書いてあった。
「これ、全部か?」
「全部だ」
刹那はもう一度抑揚のない顔で確かめた。書かれたいた個数がかなりの量だったからだ。ニールはそれでいいんだともう一度言うと、本当に済まなさそうに「悪いな、お前使っちまって」と謝った。
刹那は言われたケーキ屋にケーキを買いにいった。今まで洋菓子屋など入ったこともない。店内は甘ったるい匂いが充満していて、買い終わって出てくると匂いから解放されてほっとした。
その後も何度か、あっちの菓子屋だの、こっちの洋菓子屋だの、さまざまな店にお使いに行かされた。買う量は毎度半端じゃなく、さすがの刹那も疑問に思ったほどだった。
その疑問が解けたのは、それからまた一月程経った頃だった。
次の日からニールが学会で一週間不在になるという日の晩、刹那はまたニールの依頼を受けた。
いつもとおなじようにメモを渡されたが、今回は所定の菓子屋に何かを買いにいくだけじゃなく、それを所定の病室に届けて欲しいと言われた。
「耳鼻咽喉科にさ、ティエリア・アーデって患者がいるんだよ。前にお前にカルテのコピー取ってこいって頼んだことあったよな」
バツが悪そうに頭を掻きながら話すニールは、でも絶対断るなよという強い圧力のかかった目で刹那を見た。
「悪いけどそいつに、このメモに書いてあるとおりの日にケーキ届けてやってくれるか? 俺がいけないからその代りに…」
「相手はニールが来れないこと、…」
「知らない。だから一緒に謝っといてくれ。来週は俺が戻ってくるからってついでに伝えてくれるか」
この患者はニールの知り合いなのだろう。それにしては見舞の品も頻度も多い気がするが、誰か特別な患者なのかもしれない。
刹那が「わかった」と頷くと、ニールはありがとうと軽く頭をさげた。
数日後、ニールに指定された日の夕方、昼休み中に走って買いに行っておいたケーキの箱を持って、刹那は耳鼻咽喉科の病棟を訪れた。
外科病棟とは違い、全てが真新しい病棟の廊下には誰もいなかった。
刹那は一つ一つ病室の表札を確認しながら進み、目的の病室を見つけると、躊躇わずにドアをノックした。何の声も聞こえてこない。無言は了承というのが病棟の基本だ。刹那はさっさと大きくて重いスライドドアを開けると、自分も無言で室内に入った。
入口正面の窓ガラスに沿った窓辺の作り付けベンチに、ティエリア・アーデなる患者は背を向けて座っていた。
病院で支給されるガウンではなく、自前の白いパジャマを着て、髪の毛を後ろで束ねている。顔は見えないが首の細さと白さ、そして耳横に主張するように張り付いたガーゼが目立っていた。
刹那も口が簡単に開くタイプではない。何と言おうか、じっと黙ったまま立っていたら、ティエリアの方が根負けしたのかゆっくり振り向いた。そして刹那を見た瞬間、少し驚いたように真っ赤で大きな瞳を見開いた。ニールを予想していたのだろう。驚きの中に僅かな失望が見えた気がした。
「誰だ、おまえは」
中世的で綺麗な顔に対して声は細くきつい。
「刹那・F・セイエイ。俺はニールのコベンだ」
「コベンがどうしてここにいる」
「これを預かってきた。ニールは学会で来れないから、頼まれた」
大きな白いケーキの化粧箱を差し出すと、ティエリアが手の平を上にして、鉤型曲げた人差し指をくいくいと動かした。こっちに持ってこい。マネキンのように整った指がそう命令している。
刹那は黙って歩を進めると、箱をティエリアの横、ベンチの上に置いた。
刹那の手が箱から離れるとすぐ、ティエリアは組んでいた足をなおして膝の上に箱を置いた。丁寧な手つきで箱を開くと、顔を箱の中に入れんばかりに近づけた。
「…何をしているんだ?」
「別に。匂いを嗅いでいるだけだ」
「腐ってはいないぞ」
「そんなことはわかっている」
「じゃあなんでそんなに匂いを嗅ぐんだ?」
「儀式みたいなものだ。気にするな」
ティエリアは暫くして顔をあげると、蓋をまた閉じて、箱を膝に抱えた。
「食べないのか?」
これまでもあれだけ何度も買いに行かされたケーキは、確実にこのティエリア・アーデのためだ。よほどこの患者はケーキが好きなのだろう。そう思っていたが、匂いを嗅ぐだけで一向に食べようとはしない。今は食べる気分ではないのか。
別に刹那も食べるのを見届けなければいけないわけではない。届けることだけがニールからの依頼だ。
刹那は黙ったまま踵を返すと、病室を出ようとした。
「ニールは、…いつ、戻ってくるんだ?」
背中越しの声は相変わらずきついが、さっき彼の瞳が見せた失望の片鱗が散りばめられていた。
「来週には戻ってくる。いないのは今週だけだ」
答えて出ようとした刹那は、思い立って自分もドアに手をかけた状態で尋ねた。
「あんたは、ニールの何なんだ?」
最初にニールの口からティエリア・アーデの名前を聞いた時から、ずっと気になっていた。基本的に人の詮索には興味がない刹那だが、ニールがこれほどまでに気にかけている患者とは一体何者なのか、答えが欲しいと思っていた。
ティエリアの顔は、「どうしてお前に聞かれなきゃいけないんだ」と露骨に嫌な顔をした。その表情は、「ニールとの特別なつながりをお前なんかに触れられたくない」と叫んでいるようだった。自分にとって大事な、特別な何かを人に汚されたくない。ティエリアは全身でニールと自分を守ろうとしていた。
「別に、言いたくないならかまわない…」
刹那も無理に関係を聞こうと思っていたわけじゃない。あっさり引き下がって今度こそ部屋を出る。
スライドドアを閉めようとしたとき、
「ニールは僕の一番大切な人だ」
「……」
「そして、僕はニールの想い出の一つだ」
大切な人と想い出の一つ。
刹那には言われた意味がわからなかった。この患者のこともニールのことも良く知っているわけではない。二人がどういう関係なのか、過去に何かあったのかもしれないが、刹那が首を突っ込む理由はない。
「来週は必ず来いとニールに伝えろ」
窓辺に座ったままのティエリアは、背中越しに言うと、さっさと行けとばかりに手をぞんざいに振った。
「わかった」
刹那も、無難に応えてドアを閉めた。
ティエリアの最後の言葉には、先程までの失望感は混じっていなかった。代わりに微かな期待感が含まれていた。それはまるで両親と遊園地へ行く約束をした子供のように、無邪気な待望感だった。