八月に入り、ヘブンズビーチは連日のように満員御礼、イモ洗いごめんなさい、入場制限継続中、トイレ行列一時間と、毎年の事ながらとんでもない状態が続いていた。
当然のことながら『イアンヴァスティ』もその例に漏れず、中も外も厨房も全てが大忙しで、誰もが僅かの休憩すら取れずに働きづめの一日が続いていた。
相変わらずのハレルヤの怒鳴り声と、それを諌めるロックオン、その二人の間で笑いながら接客をこなすクリス。
そして一人黙々とレジを担当するティエリア。
何気ない夏の光景。
毎年繰り広げられる日常。そんな忙しさと騒がしさが今のティエリアにとってはありがたいと同時に、こうまでしても頭の中から一向に離れる気配のない不安に恐怖を覚えて、何もしなくても体中が脂汗に包まれる感覚に血の気が引く気がする。
ひっきりなしにレジを打ちながらも、ティエリアの頭ではずっと一つのことに占められていた。この前ハレルヤに厨房で衝撃的なことを言われたときから。
『お前が別の男に無理やり犯られたって、アレルヤ知ってんぞ』
ハレルヤの言うことは本当だろうか。あいつはいい加減なヤツだから平気で嘘つく。嘘だったらいい。そう願う一方で、ティエリアの頭はハレルヤが無駄な嘘はつかない人間だと認識している。いい加減でアレルヤとは全く違う性格だけど、基本部分は似ている二人だ。だから人を茶化すような嘘はつかない。
だとしたら、ハレルヤの言うことは正しくて、アレルヤは自分に何が起こったのかを既に知っている・・・。
頭から一気に血の気が引く感覚に、慌てて首を振る。
「ティエリア、大丈夫か?お前なんか顔白いぞ」
「こいつはいっつも白いじゃねえか」
レジ後ろのカウンターから声をかけてくれたロックオンに、ティエリアではなくハレルヤが頼みもしないのに答えてくれる。
「なんでもない、大丈夫だ」
軽くロックオンに笑いかけたが、逆に繕ったような滅多に見せない笑顔に、ロックオンの訝しげな視線が返ってきた。今は何も触れて欲しくない。誰かのいたわりの言葉ややさしさがうざったい。何か言葉をかけられたら逆に問い詰めてしまいそうだ。「自分はどうすればよかったのか」と。
「本当に、何でもないから」
ロックオンの声にレジに並ぶお客さんもその顔色の悪さに気が付いたようだが、皆何も言わずにお金を払って店を出て行く。テイクアウトの客も含めてレジも長者の列だが、ティエリアはこの無言に立ち並ぶ他人の列に救われていた。同性同士の客たちが自分に声をかけたそうにチラチラと視線を送ってくるのも全て無視して、ただ機械的にレジを打ち、金をもらい、釣りを渡す。何も考えない機械のように。
でもどんなに機械になりたくても、自分は人間でいろいろな感情が胸の中に勝手に渦を作る。そして今、その渦の中心には必ずアレルヤがいる。
もし本当にアレルヤが自分に何かあったのかを知っていて知らないふりをしたのなら、それはどういう意味だったのだろうか。
汚れてしまった自分などもう要らないから、知らないふりをして好きなようにさせたということだろうか。
だとしたら・・・。
(それならいい)
こんなヤツだったのかとアレルヤが半年前、あっさり自分を忘れていてくれたのなら、それはそれでいい。
自分の望んだ展開の一つだ。
でも、もしアレルヤがこんなティエリアと一時でも一緒にいたということを恥じてそんな自分自身に嫌悪を抱いているのだとしたら。またはティエリアに起こったことに対して何がしかの責任を感じているとしたら。それは自分が望んだことではない。
アレルヤには何の負い目も、何の負の感情も覚えて欲しくなかった。自分を責めて欲しくなかった。
ただティエリアという人間をぽいっと捨てて、忘れて、普通に生きて欲しかった。望んだのはそれだけだ。
それだけアレルヤが好きだった。そして今も好きだ。
クリスからアレルヤの話を聞く度、クリスと一緒に歩いている姿を見かける度、どうしてこうなってしまったのだろうと胸が痛くなった。自分は何を間違ってしまったのだろう。自分の何がいけなかっただろうか。自分の何が、今のこの状態を生んでしまったのか・・・。
『イアンヴァスティ』のスタッフが交代休憩が出来たのは、既に夕方と呼ばれる時間、ヘブンズビーチもあと一時間で閉まるという時になってからだった。
ロックオンの指示でティエリアも休憩をもらうと、いつも休む厨房ではなく外に出た。少しは昼間の混雑具合は収まったようだが、それでもまだビーチはカラフルな水着を着た人々で溢れかえっている。
ティエリアは『イアンヴァスティ』前のデッキから砂浜へ降りる階段に腰をかけると、持ってきたグラスに口をつけた。ロックオンが渡してくれたそれは炭酸のレモンジュースで、レジ用語を喋り続けたティエリアの喉を潤してくれる。
ほっと一息ついて、目の前に広がる海と砂浜、そして幸せそうに遊ぶ人々を眺める。夕暮れのヘブンズビーチはどんなに混雑していても超然としていて美しい。この海に映る夕焼けを見ていると、世界でもっとも綺麗なビーチランキング上位に毎年あがる理由も納得できる。そして去年はここにアレルヤがいた。アレルヤがいるこのビーチはティエリアにとって世界一の場所だった。
偶然出会ったのに、ティエリアの世界をあっという間に自分色に染めた男。
ティエリアは生きることに不器用らしい。よく人に言われる。自分でも確かにそうかもしれないと一応は理解もしている。そんな多分普通の人からしたら扱いずらい自分に、当たり前のように接してやさしくしてくれたのはアレルヤが初めてだった。「綺麗」とか「美人」とか、人が自分に近づいてくるときに必ず言う言葉も、アレルヤは一切口にしなかった。ただいつのまにかティエリアを欲して傍にいてくれた。だから自分もアレルヤを好きになったのだ。
そう、何も欲せずに、自分だけを欲してくれたから。
「ねえ君、一人?」
「よかったら一緒に話でもしない?」
「一緒に遊ぼうぜ」
いつの間にかまた俯いていたようだ。上から降ってくる声に顔をあげると、いかにもというこのビーチでは吐いて捨てる程いるナンパ野郎が二人、ティエリアの前に立っていた。海水でなのかわざとなのか赤茶けた髪に日焼けした体で、あからさまな視線を顔にぶつけてくる。
(また顔か)
自分の顔は人の興味を集める。自分が好むと好まざるとに関わらず、人の視線を釘付けにする。
「ねえ、どうせ一人なんだろ?」
ティエリアが何のリアクションも起こさずにいると、二人のうち一人が慣れ慣れしくティエリアの肩を叩いた。
「ねえってば」
パシッとそれを払いのける。触られた肩にゾロゾロと虫が肌の内側から這い出てくるような感覚を覚えて吐き気がした。
払いのけた際に当たった手からも、同じ感覚が自分を食い尽くす。
「・・うるさい・・僕に触るな」
唸るような声も、元来細い声で大した効果は与えない。それもいつものこと。それでも目の前の二人には男か女かの区別がついたようだ。
「なんだ、男だったの?あんまり綺麗だったから女かと思ったぜ」
「でも別に男でもいいよ、俺は。こんな美人なら別にどっちでも」
こんな言葉もいつものこと。
全てがいつもの、ティエリア・アーデの日常。
ならば、この日常を壊してしまえばいい。そうだ、どうしてこんなことに気が付かなかったのだろう。
やはり自分が原因だったのだ。
やっと解った。
自分の何が悪かったのか。自分が何を間違えてしまったのか。最初に自分が何をすべきだったのか。
ティエリアは立ち上がった。
「ここで待っていろ」
ナンパ野郎たちにそう告げて店内に入る。そしてロックオンの仕事場であるカウンター内側に向かった。
「もう休憩おわりか?」
ドリンクに添えるオレンジを切るロックオンの手から、果物ナイフをもぎ取る。
「お、おい!ティエリア!?」
ロックオンの声を背中で拒絶して、また外へ出る。さっきの野郎どもは言われたとおりに同じ場所でヘラヘラと笑っている。
ティエリアはデッキに立ったまま、二人を見下ろした。夕方とは言えまだまだ強い日差しが目の前の茶髪を照らし、髪の毛が金色に光って見える。
「おい、お前たち、これでも僕と遊んでくれるのか・・・?」
(下種野郎が・・・これでもお前たちは僕を欲しいと思うか・・!?)
ティエリアは手に持つナイフを自分の右頬に当てると、ためらいなく下に引き降ろした。
「げっ」
「うわっ」
ヘラヘラ笑いが消える。代わりにおぞましいものでも見るような恐怖に満ちた四つの瞳がティエリアを縛る。そのまるで未知の光景でも見るような眼を睨みながら、ティエリアは左頬にもナイフを当てるとすっと下に引き降ろした。
液体が流れる感覚を両頬に感じる。顎の先にくすぐったい感覚が起こり、両頬から溢れ出た血が滴ってきているのだとわかる。
「どうだ・・・これでも僕と遊びたいと思うか・・・こんな僕でも誘ってくれるか・・?誘ってくれるなら、喜んで付き合ってやるぞ・・・」
多分壮絶な光景だったのだろう。穏やかなビーチでナイフを自分に突き立てるティエリアの周りにごく自然に人だかりが出来ていた。ナンパ野郎はティエリアを危ない人間だと思ったのか、あっという間に人ごみの中に逃げ消え、何が起こったのかわからない人々が夫々にティエリアの奇行を眺めている。
そんな周囲など見えていないかのように、ティエリアは更にナイフを自分の顔に当てようと手を挙げたが、何か強い力にぐっと掴まれた。
「てめ〜、何やってやがる!馬鹿かっ、てめえは!!!ああ!?」
鬼のような形相でハレルヤが睨んでいた。掴んだ手を離さずに、もう片方の手でナイフを取り上げる。
掴まれた手がじんと痺れてくる感覚に、ティエリアは自分の浮遊していた意識が戻ってくるのを感じていた。
「ハ、レル、ヤ・・」
「ハレルヤじゃねえっ!!このクソ馬鹿がっ!!」
「・・ハレ、ルヤ・・」
「てめえが本当に呼びたいのは俺じゃねえだろっ!!!」
「・・でも・・」
「ったく、馬鹿だ、てめえは」
そう吐き捨てるように呟くと、ハレルヤはエプロンのポケットからタオルを出すと、ティエリアの顔に押し当てた。
「とりあえずこれで押さえとけ」
取り上げたナイフを店先で見ていたロックオンに渡し、「医者に連れてく」と言い残すと、ハレルヤはティエリアの腕を引っ張って浜辺を歩き始めた。
ロックオンもクリスも、そして店内にいる客も、未だ店のエプロンをつけたまま浜を歩き去る二人を言葉もなく見つめていた。