イアンヴァスティ 2308年6月


「またてめえと一緒か」
  ぞんざいな物言いに相手が誰か予想しながらも振り向くと、やはりの顔、ハレルヤが偉そうにふんぞり返っていた。
「そういうお前もまた今年もいるのか」
「うるせえな、しょうがねえだろ、あのカクテルバカが泣いて頭さげんだからよ」
「別に俺は頭なんか下げてねえぞ〜、アレルヤがどうしてもっていうからこっちもしょうがなく雇ってやったんだぞ〜」
 カクテルバカ、もといロックオンは既に自分の定位置であるカウンターに入り、グラスやら酒ビンを洗っている。
 去年の営業が終わってから九ヶ月ぶりに開店した『イアンヴァスティ』は、毎年のことながらそこかしこに埃がたまり、明日の開店までにやらなくてはならないことが山ほどあった。
 ヘブンズビーチが九ヶ月の休息に入っている間に、またティエリアはアレルヤとの生活を始めた。半年振りにアレルヤに抱かれた夜から数えて十日後のことだ。出て行ったときと同じだけの荷物を持って帰ったティエリアを、アレルヤは相変わらずの笑顔で何もなかったように迎えてくれた。
 それから九ヶ月、ティエリアは元々働いていたスメラギの事務所には戻りもしなければ、どこかで働くこともしなかった。スメラギはティエリアが戻ってきたことを知り何度か誘いをかけてくれたが、アレルヤがよい顔をしなかった。スメラギといえば、絶対にその友人であるビリーカタギリを思い出す。ビリーカタギリを思い出せば、また忘れようとしているあの出来事もおのずと引っ張り出されてくるからだ。
 アレルヤの「ティエリアは働かずに暫く家にいたらいいよ」という提案に、ティエリアはありがたく従うことにした。
『イアンヴァスティ』で心が空虚なままバイトをしていた間は、ティエリアも何をどう感じていいのか、自分でも解らないまま生活していた。あの夜の忌まわしい出来事に対して何も感じなかった。だから『イアンヴァスティ』で人前に出ても、他人に誘われても、何をどうされても平気だった。心が麻痺していて何も感じていない状態だった。
 それが顔に傷を負ったときアレルヤに久しぶりに会い、その後不安と苦痛の中で、そしてまだ生生しく思い出すあの場所で抱かれたことで、心にかかっていた麻酔がきれてしまった。
 半年ぶりに自分に快楽を与えるアレルヤに無意識に絆されてしまったものの、その後ティエリアの精神は不安定を極めた。元の関係に戻ったと思ったのは錯覚だった。ティエリアが安心してアレルヤの横で眠れたのはどうしてなのか、今でも二人にはわからない。一度壊れたものを直すのは、そんなにたやすいものではなかったのだ。
 だから仕事して普通の生活をすれば大丈夫だからと言ったティエリアに、アレルヤは働かずに家に留まることを提案した。ティエリアが何もわかっていなかったからだ。自分が精神不安定だということもこの時のティエリアにはわかっていなかった。
 全てをわかっていたのは、アレルヤだけだった。
 ティエリアの全てを理解して受け入れて支えてきたのはアレルヤだった。
 九ヶ月という時間が長いのか短いのか・・・その長短では測れない二人しかわからない苦痛の毎日を、アレルヤとティエリアは過ごしてきた。
 最初の日にアレルヤが荒療治的にティエリアを抱いてから、何度も何度もアレルヤはティエリアを抱いた。それこそ毎日、若い雄同士がさかっているかのように。
 アレルヤは、時にありたっけの力で抵抗するティエリアを組み伏せて、泣き叫ぶティエリアを抱いた。
 とても愛し合っている二人の行為とは思えないような、ほとんど暴力的な抱き方のときもあった。
 でもアレルヤは拒否されても、何をされてもティエリアを抱き続けた。
 大声で泣かれても、引っ掻かれても、無意識のうちに罵倒されても、アレルヤはティエリアを抱き続けた。
 そしてそんな切ない行為の中から、お互いに快楽の断片を探し出し、繋ぎあわせ、そしてようやくティエリアがアレルヤという存在をアレルヤとして認識できるようになったのは、つい最近のことだ。
 それだけ二人の間を壊したものはとてつもなく巨大だった。たかが数十分の行為が、こんなにも自分とティエリアを引き剥がしたと考えるだけで、アレルヤのコーナーへの憎悪は計り知れなかった。
 そのコーナーはあの時以来、一切アレルヤのどの店へも顔を出さなくなった。多少でも人間としての羞恥が残っているのならば、とてもじゃないが顔を見せようとは思わないだろう。もう二度と会うことはないだろうと予想はしつつも、アレルヤは未だに各店舗にコーナーが顔を見せたら連絡するように伝えてある。多分ないだろうが、万が一にでも彼がまた顔を見せられるほど、アレルヤが思ったよりも更に厚顔な男だったなら、遠慮することはない。どんな方法を使ってでも自分のしでかしたことを自覚させて後悔させてやるつもりだ。
 そして秋、冬、春と過ごし、ヘブンズビーチの海開きも近くなったある日、ティエリアが「今年も『イアンヴァスティ』で働きたい」と言った。
「あそこは、何となく居心地がいいから」
 夜風のそよぐベランダで、街の向こうにチラチラと見えるヘブンズビーチを見下ろすティエリアは、どこまでも穏やかだった。
「ティエリアがいいなら、僕は反対しないよ」
「またハレルヤは来るかな」
「どうだろうね。あいつはプー太郎だから、どうせ暇だろうしね」
 ティエリアの肩を抱きよせながら、アレルヤはハレルヤに早速電話しておこうと脳内にメモした。ハレルヤが『イアンヴァスティ』で一緒に働いてくれれば問題はない。何かあってもハレルヤが対応してくれるだろう。去年のように。
 かくして、2308年の夏も『イアンヴァスティ』には去年と同じく、ハレルヤ、ティエリア、クリス、そして何やら去年からカクテル作りに目覚めて冬の間中どこぞやのカクテルバーに篭って修行していたというロックオンで開店準備を始めることになった。
 そして・・・。
「お前、戻ってきたのか・・」
「ティエリア、何か問題でもあるのか?」
「いや、別に・・・」
 ティエリアを凌駕する不器用さに一度は干されたロックオンの相手、刹那もなぜか今年は『イアンヴァスティ』に復活した。噂によると、去年ライフセーバーをしていた際の相棒ラッセの不審な行動に身の危険を感じてロックオンに泣きついたところ、「刹那の言うことなら何でも聞いちゃう」ロックオンが勝手に雇ったらしい。
「カクテルバカの次は色ボケバカか、てめえは」
 ハレルヤの怒号もなんのその、雇われ店長ロックオンはいそいそと刹那の歓迎会などというものを計画している。
「ティエリア、今日は掃除終わったらぱっとここで開店前祝い及び刹那の歓迎会やるから、お前も残れよ」
「あ、いや、僕は」
「アレルヤも呼んだから、な」
 ぽんとロックオンに頭を叩かれて、ティエリアはじゃあと頷いた。
 アレルヤがいてくれるならいい。どこにでも行く。いつまでも待つ。何でもやる。アレルヤさえいてくれるなら。
 手垢のついたガラス窓を乾拭きしながら、ティエリアはその先にあるヘブンズビーチをぼっと眺めた。去年は暗くて怖いと思っていた海も、横に誰かがいると思えばなんとも思わない。
 アレルヤが横にいてくれるなら。
(アレルヤ・・・)
 急に夜のドンちゃん騒ぎが待ち遠しくなり、ティエリアはそんな自分に恥ずかしさを感じながらも、アレルヤがいずれ歩いてくるであろう砂浜をずっと眺めていた。