「ありがとうございました」
上半身を四十五度に曲げて客を見送る。入社した時の新人研修で叩き込まれた「お客様への挨拶のし方」は既に体に浸み込み過ぎて、今ではオフの日でも知らずに腰を曲げていることがある。自分では気がつかなかったが、この前大学時代の友人に指摘された。
『お前、すげえ客商売が板についてきたなぁ』
一緒に飲みに行ったバーでうっかり携帯を忘れたときだ。店を出て歩き始めた後ろから店員に呼び止められ、「ありがとう」と礼を言ったついでに体も勝手に角度を作っていた。
横で感心したようにアンドレイの立ち姿を眺めていたラッセが、へえぇと目を眇めて自分を見ているのが少し恥ずかしかった。
ラッセとは大学入学当時からの付き合いでもう六年になる。愛想笑い一つできず、取っつき難いと影で噂されて友人のいなかったアンドレイに何の戸惑いもなくいきなり講義のノートを貸せと頼みこんできたのがラッセ・アイオンだった。
ラッセはその後大学を中退し、親にも勘当されて、自分の本当にやりたかった仕事へと走り去っていった。アンドレイはそんなラッセが心底羨ましくもあったが、自分に彼のように好きな道を自由に切り開いていく度胸も度量もないことは知っていた。
アンドレイはラッセが去った後も一人大学に残り、卒業し、そして今の会社に入社した。会社は自分で選んだ。小さい頃から父親の影響を受けてきた人生を変えたいと思っていた時期だった。父親が推薦する会社やコネをすべて蹴って、自分で就職面接を受けて内定を勝ち取った。
そこまでして入社した会社が自分に合っていたかどうか、入社二年目の自分にはまだ判断がつかない。それでも徐々に顧客が増えてきているのは、それなりにアンドレイに素質があったかららしい。
『素質っていうのは接客が上手いってことじゃないぜ。客が自分から喋る前にその客のニーズを悟るってことだろ。お前はその素質があると思うぜ。口ベタだけど、お前は人をよく見てる』
これもラッセが言ってくれた言葉だ。正直、嬉しかった。愛想がないと言われ続けてきたから余計に自分でも接客業ができるのだという自信が持てた。
そんなラッセと並んで、やはり今の仕事を続ける原動力になった人物がいる。
アンドレイの初めての顧客となった、財閥ディランディ系列の銀行頭取、ニール・ディランディだ。
この長身で美丈夫な男が突然店頭に現れたのは、まさにアンドレイが今の支店に配属された翌日のことだった。
ふらりと店に入ってきたニール・ディランディは、商品説明も通り一遍でしかできなかったアンドレイにあれこれ質問した挙句、「君、自分の売ってる商品のこと、何も知らないんだな」と言った。軽蔑とか蔑んだセリフじゃない。成長期の子供を見守るような、励ましの声音だった。
初めての買い物で価格帯では一番安いクリスタルの置物を一つ購入した男は、アンドレイに一枚の紙を渡した。オーダーメードのスーツに隠れて車一台は買えそうな腕時計が腕に絡んでいた。
「この住所に直接送ってくれ」
アンドレイも見覚えのある住所、この街の一地区にある住所だった。
「かしこまりました。何か一緒にメッセージカードなど同封されますか?」
「いや、いい」
「では送り主の欄にお客様のご住所とお名前を…」
「この店の住所で送ってくれ」
「……」
それでは送り主がわからないではないか。こういう時はどう客に対応すればよかったのだったか。新人研修でのマニュアルを思い返していると、入口のドアが開いてやはりピシッとスーツに身を包んだ男性が入店してきた。まっすぐアンドレイとニール・ディランディに向かって歩いてくる。こちらに向かってくる眼鏡の男性を認めると、ニールはほっとしたように息をつき、「あとはこの男に聞いてくれ」と言い置いて自分はさっさと外に出てしまった。
眼鏡の男性が代わりにアンドレイに名刺を差し出す。その名刺にはディランディ銀行の頭取秘書の肩書が綴られていた。
この時初めて、アンドレイは今まで自分が対応していた茶髪に蒼瞳の客がニール・ディランディだと知った。
秘書は請求書を銀行の自分宛に送付してほしいこと、そして品物の贈り先などを細かく確認したのち、
「この贈り物は頭取にとってとても重要なものですので、くれぐれも宜しくお願い致します」
と、アンドレイに深々と頭を下げた。それはアンドレイが習ったばかりの四十五度の礼儀作法そのものだった。
腰を元に戻すと、そこには既に客の姿はなかった。当然だ。客が見えなくなるまでお辞儀をするのが作法だ。頭を挙げて客がまだ見えていたら困る。
アンドレイは店内に戻ると、軽く溜息をついてショールーム奥の事務所に向かった。
事務所には経理の女性と支店長がいるだけだ。あとの店員はショールームで接客にあたっている。平日の夕方だが金持ちは昼夜、時間を問わず訪れる。
「アンドレイ、この請求書の最終確認お願いできるかしら」
経理の女性がぴらっと見せた請求書を受取ると、内容を確認して頷いた。
「大丈夫です。間違いありません」
「ありがとう。じゃあこれはいつものようにディランディ銀行にまわすわね」
「お願いします」
「相変わらず毎月一回ねえ…よく続くわよね」
請求書に経理処理のハンコを押しながら、素直に興味津々な物言いで呟く。女性はいつの時代も幾つになっても詮索好きだ。この経理の女性は半年前にこの支店に異動してきた中年女性で、異動当時からニール・ディランディをよく噂のネタにしていた。たんに純粋な興味らしい。
「そうですね」
アンドレイは噂の類が好きではないので、こういう時は適当にやり過ごすことにしている。
二ール・ディランディの月一回のご訪来はこの支店のみならず、この会社の中でも一時話題となった。
毎月一度、廉価な品物を長い時間かけて選び、店から直接届け先への送付を依頼する。
経済界でも若手のホープとして経済系雑誌や新聞でその顔を目にしない日はない程の人物なのに、なぜかこの店に来る時は一人だ。ハイヤーも秘書も店の前で待っている。店内には一人で入ってきて、一人で選ぶ。たまにアンドレイの意見を聞いたりすることもあるが、それはアンドレイがどう思っているかを聞きたいわけじゃない。アンドレイを別の誰かと見立てて会話をしているだけだ。
別の誰かが誰なのか。二年の間ニール・ディランディの相手をしてきたアンドレイは薄々解っている。でもそれを確かめる術も、方法も、チャンスも、そして理由もない。
「送り先っていつも同じなのよねぇ?」
経理の女性の質問に、アンドレイははいと短く答える。この女性に限らず他からも何度も聞かれた質問だ。毎月送り先も品物を受け取る相手も同じでこの二年変わりはない。
「私が知る限りでは、ニール・ディランディって婚約者がいたはずなのよね」
「婚約者?」
初めて聞く内容に、アンドレイの投げやりな口調に僅かに緊張が走ったのを女性は見逃さなかった。一気にまくしたてる。やはり噂話には聴いてくれる相手が必要なのだ。
「そう、婚約者。やっぱり財閥系のお嬢さんで一度雑誌か何かで二人のツーショット見たことがあるのよ。金持ちはやっぱり金持ちとくっつくのねえって旦那と話してたんだけどね」
「じゃあその住所の人が、その婚約者ってことでしょうか」
「…たぶん、違うと思うのよねぇ」
女性が眉間に皺を寄せて考えている。真剣な表情だ。他人のことにここまで真剣になれるのは人生プラスなのかマイナスなのか。
「だってこの住所、どう考えてもアパートっぽいし。金持ちの住む地域じゃないしねぇ…」
「じゃあ…」
「不倫相手だったりして…」
くすっと意味深に笑った女性は、支店長の咳ばらいに気圧されて口を噤む。
(不倫…、それはないだろう)
ニール・ディランディの左手の薬指に指輪はない。相手が既婚か未婚か、はたまた婚約中か。客のデータとして知っていなければならない最低限の情報だが、アンドレイが知る限りニール・ディランディは結婚はしていない。かといって婚約者の話も聞いたことがなかった。それに第一、婚約者に向けてだったらこんなに二年も毎月名前も名乗らずに贈り物などしないだろう。
(じゃあ誰に向けて…?)
今まであまり考えたことがなかった単純な疑問が心の中にプクッと生まれる。
今度来店したら、さりげなく聞いてみようか。
誰に毎月送り物をしているのか。
その相手はニール・ディランディにとってどんな存在なのか。
そして、どうして名前も告げずにその隠れた想いを伝えようとしているのか、を。